アーツマたちばな

kogurearts.exblog.jp
ブログトップ

プラトン『ゴルギアス』を読んで~迎合からの自由というテクネー

映画『約三十の嘘』を見る

少し関係することでもあり、アーツとエンタテインメント(娯楽)との区別を考えるためにも、プラトン著、加来彰俊訳『ゴルギアス』(岩波文庫、1967)にあるソクラテスの言葉(プラトンが政治に向き合うために必要だった思考でもある)を抜き出しておく。昔英語で習った政治屋(politician)と政治家(statesman)の区別があるという話とも関連している。

《・・・身体でも魂でも、それぞれのものの世話をするのに、二通りのやり方があるとぼくたちは主張していたのを、ここで思い出してもらうことにしよう。つまり、その一つは、快楽を目あてにしてその対象とつき合うものであり、いま一つは、最善のことを目ざしながら、ご機嫌とりをするのではなく、あくまでも自己の立場を守り通してその対象とつき合うものである、ということであった。》P209~210

身体の技術(テクネー)は、体育術と医術である。快楽のみ、人びとのご機嫌とり(迎合)をするのは、体育術なき「化粧法」であり、医術なき「料理法」であるという。他方、人間の精神(魂)の技術は政治術であり、政治術(立法術と司法術)なき迎合が、ソフィストの術であり弁論術なのである。

詩(劇)が、どうもソクラテス(プラトン)によれば、弁論術の一種になっていて、「技術(アーツの語源であるのだが)」なきものであるように語られているのは、心外だが、それをおいておけば(技術を持つ=大衆に迎合しない詩=劇=芸術があるという留保をしておけば)、エンタテインメントとアーツとの関係がより総合的・哲学的にすでにギリシャ時代に言われていたことがわかる。

《・・そのうちの一方は、技術的なものであって、魂にとっての最善が何であるかについて、あらかじめ何らかの考慮をしているものであるが、これに反して、もう一方のものは、最善ということは無視して、これまた身体の場合と同じように、ただ魂の快楽だけを問題とし、どうしたなら魂に快楽がもたらされるか、ということは考えているけれども、快楽の中でも、どれはより善いものであり、どれはより悪いものであるかということについては、考えてみようともしなければ、また、より善いことになろうが、より悪いことになろうが、ただ気に入られて喜びさえすれば、それ以外のことには全然、関心のないといったものなのである。》P174
[PR]
by kogurearts | 2004-12-27 22:15 | 研究活動