アーツマたちばな

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「社会化」という言葉って、色々ですね

【日々。生きる現代文学】表現の社会化 
「社会化」をめぐって、その使い方をテーマにしている、(大好きな詩人の)上田假奈代さんのブログシートを見つけたので、便乗させていただき、関連して書いておきます。

確かに、アーツ(芸術、表現)の社会化とか言ったときは、当たり前ですが、アーツは、社会化されるべき「子ども=ニューカマー」ではないので、社会学における「社会化」の意味に間違われる(=ニュアンスが混じる)ようなことは少ないとは思います(再社会化という場合は大人が対象になりますが、どちらにしても「個人」ではない)。

また、少し社会福祉的な活動なので、アーツシーン(アウトリーチ)では違和感もなきにしもあらずな「エイブルアート運動」だけではなく、芸術の社会化という用法は、予想以上に平気に使われているようです。それもアサヒビールメセナでヒットしましたから、その影響力(加藤種男さんを中心として)は大きいのでしょう。

つまり、アーツが社会と関係なく自閉しているから、もっと社会と関わるという意味で使うことが多いのだろうと思います。他にも「介護の社会化」とか、「認識論を社会化する」という本の題名で、芸術や表現以外にもそういう使い方の「社会化」用語法がありました。

でも、社会学(特に教育社会学)をかじっていると(京都橘大学文化政策学部の学生はみな河原和枝教授によって社会学の基礎は学ぶはずですから、知っているはずですが)、
子どもなどその社会(集団)に加入しようするニューカマーが、その社会(集団)のルールを学習して社会の成員になる=集団に参加すること。つまり社会化とだけいえば、「子どもが大人になっていくこと」を指すと反応する方が自然だと思います(社会集団側から言えば、新しくこれから参加する個人にその社会のルールを学習させることです。大学のオリエンテーションとか新入生キャンプとかです)。(参考になるサイトあり)  また、子犬の社会化も参考になるね。

この社会学的「社会化」用語法に慣れていると、表現が社会化するということは、かりに、いまの社会が高度情報資本主義社会であると規定すると、情報資本主義社会の経済ルールに適応する表現方法を開発する(このブログなどそれに近いですね)という意味にとってしまいがちです。

するととりわけアーツという表現主体には、いまの社会からの自立、社会批評的な目線がどうしても必要なわけで(というか、知らぬ間にそういう場で表現するからアーツになりうるわけで)、そこにジレンマが生まれます。俗に言えば、世慣れてしまうとその時代にはヒットしてもアーツの質はどんどん低下していき、その人が歳を取ればすぐに忘れされれていくので、文化勲章などで何とか生きながらえているけれど、死んだらまったく無価値になるというパタンです。

まあ、そのジレンマの橋渡しや調整があるから、アーツマネジメントが、企業マネジメントとは別のフレームや独自の考え方を開発する必要が生まれるわけですね。

たとえば、現代音楽や現代美術を社会化するという言い方が、たとえば、もっと分かりやすくしよう、もっと消費しやすく簡便でコマーシャルな財サービスにしよう、安易にマーケティング戦略をとろうとなってしまう方向性が、「社会化」という用語にはどうしても内在しているように思われるのですね。・・・《ドゥルーズが慧眼にも見抜いたように、「マーケティング」とは「社会管理のための道具」であり、「脱産業」社会と称する社会の実態は、ハイパー産業社会である。個人主義が優位に立つというよりはむしろ、個は群れとなって行動し、個体化の機会がくまなくかき消されていく時代である。》(B.スティグレール『欲望、文化産業、個人』より)

だから、上田假奈代さんにメールを送ってきたという人が言う気持ち悪さは、もともと「社会化」の言葉にこそあるのではないかなあと思ったりします。
つまり、一方的に、表現なりアーツなりアーティストなり、もっといえば、「市民」を社会(の支配的価値観、経済政治文化メカニズム)に近づけるという感じが「社会化」という用語法やそれを使うメンタリティにはあるわけです。
簡単に言えば、表現(アーツ)の社会迎合化というニュアンスです。

まあ、そのために、アーツマネージャーとかあるいは、芸術批評のありようなどが、議論されていくので、それはまた、授業にて。
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by kogurearts | 2005-01-04 17:01 | 研究活動