アーツマたちばな

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却下と棄却

http://www.tokyo-np.co.jp/nie/kotoba/kotoba_031112.html

裁判用語なのですが、この前のトヨタのダンス審査会で、チェルフィッチュのステージが「振付」でないという発言があったとかなかったとか、そういう話があり、もし、振付でないと門前払いしたのならば、却下(訴えの原告不適格)、審査をして退けるのならば、棄却ですね、という話をコメントしました。http://chelfitsch.exblog.jp/2255604/

あっているはずだとは思いましたが(30年前の民事訴訟法の講義~途中で投げ出したので、行政法における行政訴訟法理の知識という方が無難ですが~ですから)、一応サイトで調べたのが、上のとおり。ほっとしました。結局ぼくの場合、昔習ったことが参照軸になります。つまり、法学のぼんやりとした知識(もし実定法でもう一度勉強するならば、刑事訴訟法だと思います。刑法とともにもっともリベラルな先生に習ったのでその印象が強烈)。

実定法(これは、司法試験など現役では通らないとはなから思っていたので公務員試験で通る程度の一夜漬け勉強)よりは、マートンの中範囲理論とかいうのが中心だった法社会学(2年生に都立大学の先生に教えてもらった)が好きでした。それで、4年生のときは、2つほど文学部の社会学科の単位をとりました。そこで、ゴッフマンとか参与的観察とか習いました。バーガーやシュッツの現象学的社会学は、現象学ファンのぼくにはすとんと落ちるので、タルコット・パーソンズは、常に悪者だという調子でレポートを書いた覚えがあります。

こわいものですねえ、学校とか大学での思考軸の植え付けは。哲学というと、中学1年生から読み出した、岩波文庫を思い出すし(ベルグソン「哲学入門」からはじまって、プラトン、パスカル、カント~あの3批判を一応読破だけはしました~やヘーゲル、ニーチェ、フォイエルバッハ、キルケゴール、マルクス、エンゲルスなどなどをわからないなりにだいたい読みました)、実存主義や現象学だと、高校時代のサルトル(小説の方が多かったかも)やメルロ=ポンティ(いまだにあこがれて時々読みます)になってしまいます(フッサールは途中で投げ出しました)。

レヴィ・ストロース(いまだにスミレの表紙の「野生の思考」を図書館で読んでいて気がつくと電気が消されてしまったことを思い出す)とロラン・バルト中心の構造主義(ポスト構造主義としては、デリダとドゥルーズぐらい、それも4年生になって八王子の大学セミナーにて輪読)は大学時代ですが、ソシュールとか中学から毎月とってもらっていた『ユリイカ』がお友達でした。そこからまったくシンポなしということでもあります。

あと、3年生で一番熱心にノートをとり、みんなに貸し出しまでした岡義達先生の『政治学』、岩波新書(1971年発行、いま絶版)の「政治」が教科書でしたが、まったく使わず。彼が書きかけの原稿用紙をただ棒読みするという授業。ぼくはひたすら速記したのでした。そして、それがみんなに回り、嬉しかったのは、ぼくをはじめぼくのノート使用者は「優」だったことでした。

でだしは、確か、政治における「見ること」と「見られること」。実技空間と演技空間。強制的観衆(キャプティブオーディエンス)としての政治劇・・こんな感じだったと思いますが、ずいぶん、覚えていることは、演劇や劇場との対比が多かった(ぼくが興味を持っていたからでしょうが)ということです。

また、思い出していつも残念に感じるのは、2年生の京極純一先生の「政治過程論」。(2年生では個人的に好きだった法社会学は別として)篠原一先生の「ヨーロッパ政治史」とともにワクワクする授業(たいていの文1の学生においてもそうだったと思います)だったのですが、試験当日高熱となり(珍しく勉強のしすぎ)、単位をもらっていません。

でも、いまだに政治社会的な意味における「顕教と密教」、強気と勝気の違い、「勝気」(勝てば官軍)の日本には、「喪われた大義~ロストコーズ」がない(判官びいきになてつぃまう)、「回想の軸心」としての同窓会、ふるさと幻想、同期入社・・・・というような問題群などを、思い出しては、思考の軸にしています。
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by kogurearts | 2005-07-16 08:18 | 雑記