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1/12のアーツ鑑賞に配ったレジュメ

ギャラリストとアーティスト
~テオ・ヴァン・ゴッホというアーツマネージャーの生き方~

〈兄ヴィンセントは弟テオなくして、画家ヴァン・ゴッホたりえたか?



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ギャラリストとアーティスト
~テオ・ヴァン・ゴッホというアーツマネージャーの生き方~
指南書(以下、読書要約):オザンヌ&ジョード著、伊勢英子&伊勢京子訳『テオ もうひとりのゴッホ』平凡社、2007年

〈兄ヴィンセントは弟テオなくして、画家ヴァン・ゴッホたりえたか?
〈98通もの未公開書簡を軸に、弟テオの画商としての生涯に光を当てた初めての伝記。
〈これは“ふたりのゴッホ”の芸術創造のドラマである。〉
序章   テオ/ヴィンセント対照年表   
 テオ・・有能な画商として、印象派や前衛の画家たちを支援
     ガイドと恩人 経済面での支え 画家になることを支持
 ひとり(兄)が描くことで、もうひとり(弟)がその夢を実現

第一章 護られた少年時代 1857~1870
テオドロス(通称テオ):1857年5月1日 オランダのズンデルト村(カトリック系住民6000人)に、カルヴァン派の牧師の家庭(貧しいが誠実な活動で村人に信頼あり)に生まれる。兄ヴィンセントは、1853年3月30日生まれ。
ヴァン・ゴッホ家の一族・・・牧師(曽祖父、祖父も、元はハーグの金細工師の家系だったが伝動の道に)、あるいは、画商(テオの伯父3名は版画と絵画を扱う裕福な画商)

ヴィンセントとテオは強い兄弟愛に結ばれて幼少時代を送る
ヴィンセントのみ、初等教育を卒業した後上の学校に入るが、最終学期の終了を残して村に帰る
セント伯父が経営していた旧ヴァン・ゴッホ社が、同じく画商のグーピルに譲渡
グーピル(ブッソ&ヴァラドン)商会にヴィンセントが就職:ハーグ勤務

第二章 犠牲の青年時代 1871~1878
15歳まで、学校へ。だが、経済的に限度→グーピル商会へテオも ただし、ブリュッセル(ベルギー)の店へ
そのあとすぐに、ヴィンセントがロンドンへいくのに応じて、今度はテオがハーグの店へ。16歳のテオ
勉強熱心:版画、美術館通い(ブリューゲル、レンブラント、ルーベンス、ファン・ロイスタール、フェルメール・・・)

仕事は順調 だが、メランコリーと性欲 ハーグの娼館へ
1876年、ヴィンセント、解雇される
1877年、オランダ国内をまわる仕事のあと、1878年にパリで開かれる万国博覧会:企業の展示会場における画廊の代表に

第三章 パリ-成功への希望 1878~1883
パリ万国博覧会1878.5.1~11.10 35カ国、5万点以上出品、1万人
5/1の日、テオ21歳の誕生日
《・・万博は、このフランスの首都の富と豪華さを自分の目で見る絶好の機会である。彼は出品されたエジソンの蓄音機の前で驚嘆し、幻想的なイルミネーション飾りに感嘆し、ナミソン街に並ぶ各国のパビリオンを通して世界を発見する。日本館が熱狂的支持を独占していた。この国は西洋諸国に開かれたばかり、明治という時代だった。日本様式は芸術においても調度品においても流行となった。漆器や象牙細工、磁器、刺繍などの純化された工芸品は、これ見よがしで過剰な西洋の作品とは対極にあり、人々を魅了した。インテリ層たちは、浮世絵の色彩、その自由性と繊細さを称讃した。印象派の画家たち、特にマネはその影響を受けた。
《 テオには信じられないようなチャンスだった。グーピルを代表して、目利きや好事家たちに、画廊お抱えの画家たちの作品を紹介するという任を与えられたのだ。彼はパリの大イベントの真っただ中にいたわけで、わずかな期間とはいえ、万博という一大事に関わったことは、のちのキャリアに決定的にものをいう経験となる。》p61-62

ただし画廊は保守主義(アカデミズム) 絵画の新しい潮流は何も紹介せず:たとえば、ドーミエの写実主義、農民画家ミレー、社会主義者のクールベなど(クールベ「波」は出品)
ヴィンセントは、失職後、神学大学受験勉強をしたが放棄  伝道師養成所へ でも、ここでも失格 炭坑町で試験的に説教するチャンス与えられる 「説教よりも物質的援助」と兄は思い、謙虚と貧困の道へ

1879年、テオは昇給 ヴィンセントから長く熱い手紙(人生を芸術に捧げる)
《・・この手紙に感銘したテオは、そこで重大な決心をする。ヴィンセントが世に出るのに責任を負おうというのだ。兄が絵を描きたがっているのであれば、自分なら惜しみなく助言ができる。絵画に関しての考えを伝えることもできる。また物心両面で彼を支えることだってできるだろう。以後、テオは月100フランを仕送りすることになり、そしてそれはすぐに150フランになった。画材やモデル料、食費が高かったのだ。》p74

テオの年収:4000フラン 月収にすると、300フラン 半分をヴィンセントに、その残りの一部も家族へ送金  そのほか、絵が売れると追加手当

テオの画廊(グーピル商会)は保守主義(パリの官展ル・サロンの保障) 官制芸術の型:デッサン第一主義、型どおりの着衣や裸体の習作、野外での制作の拒否、タッチの目立たないなめらかな仕上げ、典拠とするのは古典

印象派(ピサロ、セザンヌ、ドガ、ルノワール、シスレー、ギヨーマン、ベルト・モリゾ、マネ)を排除
でも、テオは印象派に興奮する
1883年、グーピル商会の営業が惨憺たるものに→テオ、アメリカへ行こうかと迷う

第四章 傷だらけの要求 1884~1888
《・・彼(テオ)はもう何年も前から、ようやく誠意ある蒐集家の眼にかないはじめたモネやドガといった印象派の作品を展示したいと思っていた。根気強い努力が実り、1884年、ついにカミーユ・ピサロの風景画を美術愛好家のギュヨタンに150フランで売ることに成功した。ついで翌年には、パリの蒐集家の重鎮ヴィクトール・デフォッセに、シスレー一点、ルノワールの『庭』。モネの風景画など三点売却できた。ようやく、彼の眼にかなった絵画を販売するという段階までこぎつけそうだった。ブッソ、ヴァラント両氏も、1884年に、売り上げで悪くない数字をはじき出してみせたテオの商取引は黙認していた。》p99-100

ヴィンセントは月200フランをテオから仕送りしてもらっていたが、二人の間に溝が出来る。そこで、テオからヴィンセントへの金銭の支払い(また、月150フランとなる)と引き換えに、テオが兄の全作品の所有者となることを、ヴィンセントが提案する。テオは、まだ、兄に特別の才能を認めてはいなかったが、兄弟愛からそれを受け入れる。

父が卒中で突然死ぬ。63歳。家長はテオとなり、兄弟を全員養うこととなる。父の死で兄弟は和解。
1886年3月、突然ヴィンセントがテオのいるパリにきて、同居。
8回目で最後となる印象派展が開催。スーラの登場。しかし、作品に価値が出始めたルノワールやモネは違うギャラリーの展覧会(第5回国際展)に出展。
ヴィンセントは、いままで一人で閉じこもって制作していたので、興奮。さまざまなデッサン。
パリでの共同生活は大変だったがなんとか続く。テオ、12月に病気。
トゥルーズ・ロートレック、エミール・ベルナール、シニャック、カミーユ・ピサロなどと交流。二人とも、ゴーギャン(ゴーガン)の堂々とした振る舞いに感心。

ヴィンセントの絵を売ることには成功せず。しかし、ヴィンセントがきたことで、ゴーギャンやロートレック、ベルナールなどのコレクションを得る。1886年、テオはマネの絵を100フランで買って、画家のボックスに200フランで売っている。
テオはようやく画廊の中二階を、印象派、後期印象派、点描派らの展示にあてることの許可をえる。中二階のロフトは展示と交歓のスペースに。
テオはモネの絵14枚を約2万フランで買い上げ、のち、アメリカ人に売却。
モネは高く売れ出したが、ピサロはなかなか。2枚、1000フランでテオ売却。
ドガの『花瓶のそばで肘つく女』を買い上げ、のちに4000フランで売却(画廊の帳簿)。ギヨーマン(一文無しだった)の絵を450フランで売って、喜ばれる。
テオの年収、7000フラン。無名画家の絵を個人名義で蒐集。→1988.1にピサロ、ドガ、ギヨーマン、ゴーギャンの絵などを公開。反響は少なかったが、コレクターのデュピュイのみ数枚購入。
兄弟とも日本美術に夢中→浮世絵を買いまくる(ビングの店)
二人は離れないとやっていけないことに気づく。南フランスで浮世絵の世界と共通した風景に出会えるかも?

1888年2月。兄はアルルへ。
1888年にゴーギャンの絵を6枚売る。
モネの絵を10点買い、すべて展示し売る。
(1888年、ヴィンセントの絵を一枚、サリー&ローリー画廊に売ることに成功:ただし、不明なことが多いらしい)
アンデパンダンテンにテオはパリ時代のヴィンセントの絵3枚をすべりこませるが、「狂った画家の作品」とみなされる。

アルルに行ったヴィンセント:パリから離れ印象派の動向からは隔たる・・・筆致はより力強く、うち震え、色彩は際だち、フォルムの単純化を・・・小さな黄色の家に引っ越し(6月)
「弟がパリで、新しい世代の画家たちを発掘するようになったことを知ると、彼もまたアルルで、小規模な芸術家の共同体を創りたいと望むようになる。」p137 ヴィンセントはゴーギャンを敬愛していた

他方、テオはセント伯父の死亡で遺産が入る→ゴーギャンにも、毎月一枚の絵と交換に150フランの仕送りをするという提案をする(アルルへの旅費も出す)
1888.10.23、ゴーギャン、アルルへ。(ゴーギャンは、利害損得でテオに譲歩したのみ)
テオ、体調よくなく、印象派の売買は画廊の利益にはあまり貢献しないため、苦境に
ジェローム作『カイロの通り』は、1887年に5万フランで買われ、2年後に7万フランに売られる
つまり、印象派以前のアカデミズムサロンの絵(カバネル、ジュール・デュプレ、メソニエ)は、万単位。
ところが、ルノワールの絵が150フランでもなかなか売れず。唯一モネだけが1000フランぐらいになる。

第五章 ヨハンナ、その絶対の愛(1888~1890)
ヨー(ヨハンナ)との結婚へ(ちょうどそのころ)
1888.12.23 ヴィンセントが左の耳の一部を切りとり、売春婦に渡す事件 入院 ゴーギャン去る
退院後、創作旺盛   テオに作品を送ってきている

1889年4月、テオ、結婚 
テオからヴィンセントへの手紙『・・・きっといつか、これらの作品は真価が認められるだろう。ピサロやゴーギャン、ルノワール、ギヨーマンらが売れないのをみても、大衆の支持を受けていないからだということをむしろ喜ぶべきだろう。いま大衆に受けている連中がいつまでもそうだとは限らないし、時代はまもなく、ずっといい方向へ変わっていくだろうから。サロンや万国博覧会が絵画的見地からいってどんなに貧弱であるかをみれば、きみも、あんなものがそう長つづきはしないという意見を持つと思う』p168-9
89年ベルギー、ブリュッセル「二十人展」にテオは兄の絵画を出展するが、兄はあまり喜ばない(パリで「アンデパンダン展」に出展したときも同じ、展示場所もよくなかったらしいが)

1890.1.17、同じくブリュッセル「二十人展」。ここに5点を出展:ひまわり、ひまわり、木蔦、花咲く果樹園(アルル)、赤い葡萄畑(モンマジュール)。
この展覧会である新聞に「人々の最も興味を引いたのは、セザンヌの戸外、シスレーの風景、ヴァン・ゴッホのシンフォニー、ルノワールの仕事」とあるとテオは兄に手紙
他方、画家のド・クルーが不快感を話す。それに対してロートレックは決闘をしようとする。

若き作家・ジャーナリストのアルベール・オーリエは、テオのアパルトマンでヴィンセントの作品を発見し、芸術評論を書く。好意的なもの。《彼の作品の本質を特徴づけているものは、過剰ということである。力の過剰、神経の過剰、表現の暴力性。事物の性格の断定的肯定、形の大胆な単純化、太陽を直視する傲慢さ、デッサンや色彩の狂暴さ、取るに足らないような技法の細部まで、立ち現れてくるのは、ひとりの力強く、雄々しく、勇敢な、しばしば粗野で、時には無邪気なまでに繊細な男の姿である。》

90.1.31 テオに息子ヴィンセントが誕生。同じ頃、テオは兄の絵を一点売ることに成功する。
『赤い葡萄酒畑』を400ベルギーフランで、画家のアンナ・ボッシュへ。全額を兄にテオは送る。
3月、パリのアンデパンダン展にヴィンセントの新作を展示。“呼びもの”になっていると評判あり。モネはこの展覧会の中で最高だと評価。

第六章 悲劇の宿命(1890年5月~1891年1月)
90年5月、兄はオーヴェールへ。ガッシュ医師(芸術に情熱を注ぐエキセントリックな人物)
一時、兄の健康は回復。
テオは画廊をやめようかどうしようか迷う。昇給のためにしゃにむに働く。
7/28に手紙でテオは兄がピストル自殺をしたことを知る。
7月29日の深夜、テオが看取る中、ヴィンセントは息をひきとる。37歳。
役所に届け出、装備の準備。棺を決め、15年使用権付きの墓地を30フランで購入。
自殺者には、葬儀用馬車を貸さないと神父、村長が村の馬車を貸してくれる。
墓碑・・・「烏の舞う中、陽の当たる大地の片隅に」・・・テオとガッシュ医師が考えたもの

テオのアパルトマンはヴィンセントの追想美術館になる。
『農夫のいる畑』が蒐集家のデュピュイに800フランで売れる。
1890年10月、テオ、極度の昂奮状態に。錯乱。12日、病院入院。
錯乱状態の辞表は受理、後任に対して雇用主はテオの蒐集した印象派に対する配慮はいっさいなし。

1891.1.25、兄の死後半年たって、テオ、精神病院にて、死亡。梅毒感染のよる末期段階として全身麻痺を患っていたのではないかといまでは言われている。33歳。

エピローグ
テオの妻、ヨハンナは、テオの息子が、テオの兄の遺産の唯一の相続人であることをヴァン・ゴッホ家に認めさせる。
1962年、テオの息子は、莫大な額でオランダ政府に売却、ゴッホ美術館が出来る。
1914年、ヨハンナは、兄の墓があるオーヴェールにテオの墓を移動。
by kogurearts | 2008-01-13 21:43 | 授業関係