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■踊りまわり(2)~発光するダンス、発信される情報~ 小暮宣雄
つくづく、ことばにこだわり過ぎるのは止めようと思う。
最近まで、自分の文章に極力「イベント」という単語を使わないようにしていた。否定形で「(一過性の)イベントに過ぎない」と使ったりはしたが。
でも、自分なりの定義をしてこのことばだって使おうかと思い直した。結果が予想される客寄せだけの「疑似イベント」がいけないのである。「思いがけない出来事」としての本来のイベントは、アーツとりわけ舞踊のような実演芸術と隣り合わせにある。
淀んだ退屈イベントをダンスがかき混ぜる。踊らない心へ。驚かない眼から霞を吹き払う。未知を見せ感じさせてくれる装置としてのアーツによってイベントは甦る。ダンス公演は「イベントの神髄」(=事件)とさえ言ってもいい。
さて「ダンスの(世界への)発信」である。例えば京都だけで自己満足的に発表するのはなく、他地域(海外)まで価値を認められる活動が大切だという文脈で使われる。その意図は素晴らしい。問題はことばとして「発信」が的確なのかどうか、にかかっている。
発信は発疹だとわめいたこともあった。創造すればいいじゃないですか。新たに生み出された価値を分かってもらう努力は必要だけど。わざわざ発信すると言うのは、それ自体が創造的じゃないからではないですか?と言ったこともある。
孤立無援だと思っていた私に、一橋大学の佐藤郁哉教授が「文化の発信」についてその誤謬を明確に指摘してくれた(『現代演劇のフィールドワーク』東京大学出版会)。
それによると・・・発信ということばは元来郵便や通信の用語であり、離れた同士のやりとりを指す。文化のような直接的で密度の高い交流を前提とする活動には馴染まない。
ところが、近代日本は欧米文化の(遠くにいる)受信者として、同じように国内では「地方」が中央の文化の受信者として存在した。それではいけない、なんとか「発信」しなくちゃと日本や地方が今度は「文化的強者」になろうと、こんな不可思議なことばが流行るようになった・・・と言うわけだ。
そうだったのか。舞踊自体は発信するものではないのである。発信するのはそこに優れた踊りがあるよという伝達や批評(「信」号)だ。「舞踊の創造発信」も、怒らないでやさしく「舞踊の創造(舞踊情報の)発信」と補って考えてあげよう。
第一、踊りが遠くで解読できる「信号」になっているのだったら、「いま、ここで」踊ることなどいらないよね。
じゃあ、創造されたダンスは何を発しているのか。
月は自らが輝いているのではない。太陽の光で輝いている。でも「発光」していることに変わりはない。ダンスもさまざまな形で「発光」しているのではないか。太陽のように高熱を発したり、あるいは月のように世界の輝きを映して静かに光を湛えたりする違いがあるにしろ。光が信号化され通信に使われることもあるだろう。が、その光そのものを発する舞踊自体は、まだ信号となっていない何物か、ことばから零れる何かを感じさせる。だから心奪われるのだ。
P.A.N.通信 Vol.32掲載